T 宮古島ってどんなところ?
- 1 位置と大きさ
2 気候・気象
3 地史−島々のなりたち
4 地形−ケスタ地形
5 地質−クチャと石灰岩
6 土壌
7 社会構造
8 土地利用と農業
9 サトウキビ栽培
10 畜産
11 水利用の歴史
本書のはじめに、宮古島の概要をあらかじめご紹介しておきます。
まず宮古島の位置や大きさ、気温や降水量、台風や干ばつなどの気候・気象についてみます。
次に、少し話題を変えて、宮古島そのものがつくられてきたようす(地史)や地質、地形や土壌についてみてみましよう。また後半では宮古島の社会構造や農業について、そして最後に水利用の歴史についてみます。
1 位置と大きさ
宮古島は、図T-1に示すように、九州から台湾へと連なる南西諸島のうち、比較的台湾に近い位置にあります。おおまかには、九州と台湾のほぼ中間に沖縄島があり、沖縄島と台湾とのほぼ中間(北緯25°線と東経125°線との交点のすぐ東側)に宮古島は位置しています。宮古諸島には宮古島のほかに池間島、大神島、来間島、伊良部島、下地島、多良間島、水納島が含まれ、それらの島と市町村の面積は表T-1に示したとおりです。
地球儀で北・南緯25°線上をながめると、北半球ではバングラデシュのダッカ、パキスタンのカラチ、カタールのドーハ、サウジアラビアのリャド、エジプトのアスワン、バハマ諸島のナッソー、米国のマイアミなどがあります。また南半球では、オーストラリアのアリススプリングス、ボツワナのハボローネ、ブラジルのサンパウロ、パラグアイのアスンシオンなどがほぼ同緯度です。
一方、東経125°の線をたどると、北では朝鮮民主主義人民共和国のピャンヤンや中国のいわゆる満州地域に至り、また南ではフィリピン・ミンダナオ島のダヴァオ、インドネシアのティモール島を経て、オーストラリアのギブソン沙漠を縦断します。
宮古島の面積は約159kuで、長崎県の平戸島(163ku)や香川県の小豆島(153ku)、茨城県の霞ケ浦(168ku)や北海道のサロマ湖(150ku)とほぼ同等の大きさです。また宮古島を東京都の上に移すと、図T-2のようになります。(中西康博)
ことば『「宮古地域」と「宮古島」の使い分け』
2 気候・気象
宮古島の年平均気温は23.1℃、平均最高気温は25.9℃、平均最低気温は20.9℃で、海洋性亜熱帯気候に属します。図T-3に示したように、宮古島の気温は明らかに日本の他の地域に比べ高いのですが、海洋性気候のため気温の較差が小さく、年平均気温較差は、東京、高知、宮崎がそれぞれ7.9、9.9、9.4℃(1951-1980、気象庁)であるのに対し、宮古島では5℃弱です(図T-4参照)。湿度は通年的に高く、相対湿度は年平均79%です。
宮古島の年間降水量は2,033.1mmで、わが国では降水量の多い地域に含まれますが、高知の2,666mm、宮崎の2,490mm、奄美大島の名瀬の3,051mmなど、わが国の西南暖地ではさらに多くの降水量があります。図T-5に宮古島の年降水量の推移を示しました。
宮古島に降る雨は、図T-6に示したように、一見周年的に豊富にみえますが、実際には乾季・雨季の差が比較的はっきりしています。年を通じて降水量に大きな偏りが統計的にみられないのは、宮古島を襲う台風がもたらす雨が関係しているのです。
台風は、図 T-7 に示したように、7〜9月にもっとも頻繁に宮古島を襲い、宮古島から300km以内に中心が接近する台風は、年平均3.7個です(沖縄気象台調ペ、1955〜1995年)。これらの台風の影響により降る雨は、7〜10月の期間降水量の約45%、また、もっとも台風来襲頻度の高い8月では、月降水量の60.6%に達しています(図T-6 参照)。
したがって台風による影響を除くと、宮古島の季節は、気温と降雨特性により7〜10月の乾季と11〜6月の雨季に二分することができます。乾季には、宮古島地方は太平洋高気圧におおわれ晴天が続く一方、雨季には大陸からの冷たいモンスーンが湿度の高いこの地方に吹き込み、曇天となりやすいのです。なお宮古島の梅雨期は通常5月です。この宮古島における季節の二分性は、図T-8に示すように、日照時間の変化によっても示されます。
他方、宮古島は干ばつの被害を受けやすい地域でもあります。平坦な島で高い山が無いため、海風が山岳に衝突し、上昇気流によリ形成された雲から降水するパターンがみられず、この意味からスコールは降りにくい状況にあると考えられます。したがって宮古島の乾季は、台風以外の雨は期待しにくく、厳しい干ばつに見舞われるのが通例となっています。宮古島において干ばつに襲われる頻度は、図T-9のように、7月をピークとしてピラミッド型を示します。この統計からすると、もっとも頻度の高い7月の上・中旬には、確率的に、ほぼ1年おきに干ばつにみまわれることになります。(中西康博)
3 地史−島々のなりたち
琉球列島の宮古諸島が属する一帯には、中新世中〜後期(およそ1,500万〜500万年前)の堆積物がほとんどありません。理由は、そのころ沖縄本島の名護層や嘉陽層など四万十層群と呼ばれている地層群は、隆起して陸地になっていたからです。その陸地は、久米島や粟国島に分布している火山性物質が示すように、陥没盆地では火山活動を伴っており、また台湾島や大陸と接続していたようです。
この陸橋を伝わって、琉球列島へ最初の動物が渡来したと推測されます。渡来した動物には象やウサギがいます。象化石は、宮古島の島尻海岸や大神島のクチャの地層から発見されています。ウサギは奄美大島や徳之島に現生するアマミノク口ウサギのことで、古型といわれている特徴から、この時期の渡来と考えられます。
宮古島の基盤の地層は、シルト岩を主にした島尻層群で、地質年代は後期中新世末〜前期鮮新世です。つまり陸橋が崩壊し、陥没を逃れて残った陸塊の周辺に大陸から粘土や砂が運ばれ堆積したものです。これが島尻層群の形成です。陸橋が崩壊して、島尻層群の堆積が開始するまでの期間は、ほんの数百万年間です。このことからも琉球列島は地殻変動の激しい地帯であったことが容易に推測されます。
島尻層群は、沖縄島の中・南部をはじめ、北は奄美諸島の喜界島、南は宮古諸島を含め八重山諸島の波照間島まで帯状に広がり、厚さは3,000m以上です。この厚く堆積した島尻層群が隆起に転じたのは更新世前期初頭
(160万〜170万年前)です。この陸橋は、台湾島や大陸と接続し、琉球列島側へ半島状に形成され、九州本島とはすでにトカラ海峡で隔てられていたと推測されます。この陸橋を経由して渡来した動物は、化石の種類から、象、鹿やキョン類、猪、猫、ネズミ類、鳥類、力工ルなど両生類、亀やハブなどは虫類とさまざまで、今日の琉球列島の生物相を決定づけたのです。そのうち象は、宮古島の棚原洞から発掘された真象類の仲間です。鹿やキョン類は、リュウキュウジカやリュウキュウムカシキョンで、宮古諸島を除き100か所以上の化石産地が知られています。宮古島には、ケナガネズミやハブもかつて存在していたことが明らかになっています。しかしこの陸橋もおよそ50万年間の存在だったようです。陸橋は断層運動で崩壊陥没して浅海となり、サンゴ礁の海域へと変じていったのです。
伊良部島に分布する琉球層群から最下部の形成時期は、前期更新世の前期の終わり頃(120〜130万年前)であることが明らかになっています。その後、サンゴ礁の海の堆積物は、地殻変動を受けながら沈降や隆起をくり返しながら、現在に至ったのです。宮古島上野村のピンザアブで発掘された動物化石の種類から判断すると、宮古諸島は琉球層群の造る陸橋で大陸と直接接続していた可能性が考えられます。その時期は、大型の猪や宮古諸島だけから産出する大型のミヤコノロジカの化石により、氷河期の海水面低下の頃と推測されます。(大城逸朗)
コラム『化石−ゾウとスッポン』
4 地形−ケスタ地形
宮古島は、島の北東側を斜辺(全長30.5km)とする直角二等辺三角形の形状をした面積159kuの島です。全般に海抜70〜75m以下の低平な地形で、内陸側のほぼ中央に北西−南東方向に延びた数本のリッジ(脊梁)が発達しています。リッジの最高所は、島の南東側城辺町福南の西で海抜114.6mです。これらのリッジは、島の東〜北東側では比高10〜50mの断崖となっているのに対し、西〜南西側は緩やかに傾斜しており、典型的なケスタ地形を呈しています。この地形は、東側に落ちる正断層によって形成された地質構造によリ形成されたもので、ケス夕とはスペイン語で坂、あるいは斜面を意味し、緩やかな斜面が急な崖で落ち込むような断面地形をいいます。沖縄本島南部にも典型的なケスタ地形が発達しています(図T-11参照)。
海岸は、北東海岸から南海岸にかけて直線上の長い海岸線を有し、しかも断崖になった海岸が続いています。特に北東海岸 側は、緩やかに傾斜しながら砂浜の発達したところもありますが、全般的には比高10〜50mの崖地形です。また南海岸は、南東端の東平安名崎から城辺町友利にかけ、比高40〜60mのほぼ垂直な断崖です。それに対し、西および南西海岸は、比高10〜20mの崖地形も認められますが発達は悪く、海抜2mほどの低い海食台からなだらかに砂浜の海岸へと変化します。このような東に高く西に低い海岸地形は、内陸側の東急西緩なケスタ状地形と調和し、かつて傾動運動をした島であることを推測させます。
島の周辺を概観すると、特に東〜北海岸では裾礁がよく発達しているのに対し、南海岸の友利から東平安名崎にかけては貧弱です。また東から北海岸の沖合には、幾つかの暗礁が発達しています。特に池問島の北およそ16kmの海域にある暗礁は八重干瀬と呼ばれ、春の大潮時には浮上し、大小100以上の礁原は広大な陸地を思わせるほどです。
伊良部島は、東側は断層崖となっていて海抜が高く(89m)、西にかけて低くなリ、低地帯を挟み低平な下地島へと続いています。大神島は、ひとつの山塊(海抜74.7m)を思わせる島で、北と南東海岸は比高10〜30mの崖になっています。(大城逸朗)
5 地質−クチャと石灰岩
宮古島とその周辺の島々の地質は、全域サンゴ礁性の石灰岩からできています。この地層は琉球石灰岩層と呼ばれ、厚さは40〜130mです。琉球石灰岩層の「琉球」は、台湾島の南部、高雄市南東に浮かぶ小島である「琉球嶼」に因んで名付けられたものです。これは、当時東北帝国大学の矢部長克・半沢正四郎両教授による、1925年の台湾調査に基づいたもので、琉球列島で類似の地層の存在は知られていましたが、命名が後になったのです。なお琉球石灰岩層の最下部は伊良部島に分布し、形成時期は今から120〜130万年前です。
石灰岩層の基盤は砂岩と泥岩の互層からなり、島尻層群とよばれています。沖縄本島の島尻に因んで名付けられ、厚さは3,000m以上あり、九州南部から宮古島まで帯状に延々と続いた地層です。今から150万年以上前に形成されたもので、最下部は大神島に分布しています。
宮古島の地質については、地質図を添付した賀田貞一(1885) の「宮古本島ノ石類ハ恐ク珊瑚ノミニシテ即チ那覇石類ニ属スルモノナルへシ」という記述が最初の報告です。地質は、沖縄本島の島尻層群(半沢、1925)に相当する宮古層群(青木、1932)と琉球石灰岩(Yabe
and Hanzawa、1925)からなり、両地層の関係は不整合です(Hanzawa、1935)。
島尻層群は、沖縄島中〜南部に広く分布する青灰色〜暗灰色をしたシルト岩と黄褐色の淘汰の進んだ砂岩からなる地層です。方言ではクチャと呼ばれています。クチャは苦土質の粘土、つまりアルカリ性成分の強い粘土のことです。(クチャは、クファ・ンチャ、堅い泥の意か?)水を含むと粘着性を増し、乾燥すると堅く小磯状になる性質があります。
一方、琉球石灰岩からなる琉球層群(MacNeil 、1960)は、Doan ら(1960)によりはじめて詳しい調査が行われました。その結果、層序は下位から上位にむけて伊良部石灰岩、下地石灰岩、山根石灰岩そして与那覇石灰岩に分けられ、伊良部と下地両石灰岩の関係は不整合とされています。また、古川ら(1979)は、石灰岩層は一連整合という見解を示し、一括して宮古島石灰岩と呼ぶことを提案しています。その後、琉球層群の層序に関しては、伊良部島でのボーリングコアをもとに詳しい調査が行われ、その結果、厚さ50〜110mの石灰岩層は2枚の不整合により下部層、中部層、上部層に三分されるという見解が示されています(本田ら、1993)。なお、宮古島の全域に分布する石灰岩層は「東部に原地性造礁サンゴをともなう礁性石灰岩が多く、西方にむかって有孔虫殻を含む砕屑性石灰岩、厚い石灰藻ボール石灰岩へと移化する」という特徴があります(沖縄第四紀調査団、1976)。
基盤の島尻層群の形成年代は、伊良部島において琉球層群との不整合部直下から採取した石灰質ナンノ化石(超微化石のこと)から後期中新世末期〜前期鮮新世(およそ550万〜350万年前)、さらに琉球層群下部層は136万〜110万年に堆積したと推測されています(本田ら、1993)。(大城逸朗)
コラム『絶滅動物いろいろ』
6 土壌
宮古島の農地土壌は、表T-2に示したように、島尻マージと呼ばれる暗赤色土、国頭マージと呼ばれる黄色土、そしてジャーガルと称される灰色台地土によリ、主に構成されています。このうち島尻マージが最も広く分布し、宮古島の総耕地面積の89.9%を占めています。島尻マージは主に琉球石灰岩を母材とする土壌で、土壌反応は弱酸性からアルカリ性を呈します。島尻マージは主として土層の深さの違いにより、土層の浅い礫質暗赤色土と、土層の深い細粒質暗赤色土とに大別されますが、いずれも透水性がよく、保水性に乏しい特徴をもっています。(中西康博)
コラム『孔あき岩』/コラム『洞穴に秘められた謎』
7 社会構造
宮古本島部の人口は、表T-4に示したように49, 612人、人口密度は312人/kuで、離島ながら比較的人口密度の高い島です。世帯数は17,954戸、1世帯の平均構成員数は2.76人です。
人口の推移を見ると、図T-13に示したように昭和30年代が最も多く、以後50年頃まで急減し、その後も減少を続けてきましたが、平成3年頃からは横ばいです。一方、世帯数は少しずつ増加してきています。この世帯数の増加傾向の背景には、農村部から青年層が市街に移動し、農村部における過疎化と都市部における核家族化の進行があります。その結果、平良市は宮古圏域全体の人口の6割を占め、宮古本島だけでみると7割が同市に集中しています。
宮古島の産業は現在、農業と観光業が主体となっており、農業粗生産額は約115億円(1997年)で、観光客による総消費額は宮古圏域全体で約189億円(1998年)と見積もられています。製造業は未発達で、1998年現在、島内に152の製造事業所があり、製造業従事人口は1,025人です。製造所のうち、大規模なものは宮古島の基幹作物であるサトウキビを原料とする2つの製糖エ場で、他は菓子類やパン、麺類などの食品製造や泡盛の酒造所など小規模な事業所が主体となっています。宮古島における1次、2次、3次産業の就業者数は、平成7年度の国勢調査によると、それぞれ5,067人、4,092人、12,205人です。就農者は総就業者数の23.5%に当たる5,067人で減少傾向にあります。農家数は総世帯数の29.4%に当たる4,647戸です。(田代豊・ 中西康博)
8 土地利用と農業
宮古島は起伏が少なく平坦な島であるため、農地の開拓が全島的に進められ、島面積の多くが農用地で、平成7年のセンサスでは46.2%が耕地となっています。他方、森林率はわずかに15%です。宮古における作物作付面積の推移を図T-14でみると、宮古での農作物全体の作付面積は昭和60年をピークに減少しはじめ、ここ数年は横ばいとなっています。昭和30年頃には甘藷(サツマイモ)の栽培が最も盛んで、主な作物の作付面積合計の半分以上を占めていました。しかしその後甘藷は急減して昭和50年代半ばには1%未満となりました。それに代わって増加したのはサトウキビの栽培で、昭和60年度のピークには宮古全体で栽培面積が10,000haを超えました。その後は減少に転じましたが、現在でも全体の作付面積の8割以上を占めています。サトウキビ以外では、野菜類は昭和50年代後半まで増えましたが、その後徐々に減ってきています。その他、葉夕バコも栽培されています。(田代豊・中西康博)
コラム『宮古島も「東洋のガラパゴス」』
9 サトウキビ栽培
沖縄のサトウキビの栽培型は、一般に株出、春植、夏植の3つの型に分けられます。株出は、1〜3月に収穫茎が刈リ取られた後、再生する株を継続的に栽培する方法です。春植は種茎を2〜3月に新植する方法で、夏植は8〜10月に新植する方法です。いずれも収穫期は1〜3月ですが、夏植の場合、栽培期間は16か月前後と最も長くなります。
宮古におけるサトウキビ栽培面積は、図T-15に示すように昭和45年頃まで急増し、その後昭和60年頃まで増加を続けた後、横ばいから減少に転じ、近年は再び横ばい状態です。平成元年度から平成5年度にかけては栽培、収穫面積ともに16%減少しました。また昭和55年頃から栽培面積と収穫面積の開きが徐々に大きくなってきました。これは株出が減少し、夏植が増加したためです。
夏植では2年に1回の収穫となるので、栽培面積に比べて収穫面積が小さくなります。株出が減ったのは、害虫の発生が多<なったことなどによります。平成9年度は夏植が約97%を占め、株出は1%にもなりません。また2年に1回の収穫であるため、昭和55年度以降に夏植えが急増したときに、育成と収穫面積とに差が生じ、サトウキビ収穫面積全体も隔年で増減するようになりましたが、近年、この傾向はあまりみられなくなりました。サトウキビの単位面積当りの収量(反収)は、図T-16に示すように昭和50年代まで増加した後、全体の動向としては横ばいとなっています。しかし昭和61年度以降、隔年周期で増減するようになりました。
また図T-17に示すように、サトウキビの品質を示す茎汁糖度の推移を見ると、これもまた隔年で高低を繰り返しています。(田代豊・中西康博)
10 畜産
宮古では近年、黒毛和牛の繁殖(子牛を産み育てる)が盛んになってきているため、牛の飼育頭数は増加を続け、現在、宮古全体では16,000頭を超えています。宮古本島部だけでも13,000頭を超え、とくに多良間島では、他の家畜に比べて多く飼育されています。表T-5に現在の家畜飼養数を示しました。
一方、豚の飼養数は減少し続けてきましたが、近年は横ばいです。豚の飼育は本島部に集中しています。図T-18に示すように、昭和60年以前は豚の飼養数の方が多かったのですが、現在では牛の飼養数が豚よりはるかに多<なっています。
馬の飼養数も、図T-19に示すように集計開始以降、一貫して減少してきています。ヤギも大きく減少しましたが、平成年間になってからは2,500〜2,800頭で横ばいです。
鶏の飼養数は、図T-20に示すように昭和50年代以降減少を続け、平成4年度以降若干増加しました。鶏の飼育はほとんど宮古本島部に集中しています。(田代豊)
11水利用の歴史
宮古島では白川田、加治道などの水源から水をとって、 生活を営んでいます。1人1日平均配水量は平成9年度455Lで、那覇市の同年における393Lと比べても多い方です。宮古島では水を豊かに使っているといえます。
しかし、宮古島における水利用の歴史は、平坦なことばかりではありませんでした。今日に至るまでには、多 くの先人達の夢・アイデア・努力が込められています。
宮古島にはいつ頃から人が住みついたのでしょうか。 最初の人々は、おそらく自然に流れている水とか、たま っている水などを利用していたにちがいありません。宮古島水道誌(1967年)には、この時代のことを「自然洞窟利用時代」と呼んでいます。生きていたら115才く
らいになるおばあさん(1886年生)の話ですが、「自分が若かった頃、村には井戸が1つしかなかった。つるべ(方言でクバズー)も特定の人しか持っていなかった
ので、その人が来るまでおしりをかきかき、井戸端に座 って待っていた。クバの木を植えてツルベを作るという 知恵さえなかった。」ということでした。「自然洞窟利用時代」から「掘抜き井戸時代」に変わっていった時のこ
とです。共同堀抜き井戸は、第二次世界大戦が終わった後も所によっては、使われていたと思われます。その後、掘抜き井戸は各家にも作られるようになり、水汲みには滑車(ナンバといった)が使われたり、浅井戸だと手動ポンプも導入されるなど、人々の労力は軽減されてきました。
掘抜き井戸と並行して使われるようになったのが、天水タンクです。家屋が藁ぶきから瓦ぶきになって作られたのです。1935年、今から65年前には国の補助で10戸1組の天水タンクも設置されたとのことです(宮古島水道誌,1967年)。掘り抜き井戸時代、1924年に平良市に水揚機が登場しました。それは深さ20mの井戸から水を汲み上げるというものでした。発明した糸洲朝義氏は送水管を敷設して、水を販売していたとのことです。宮古島における水道第1号と言えましょう。
こうして水を容易に得たいという人々の望みは、実現の方向にありました。しかし、まだ夏場の水不足の労苦は大きく、1939年(昭和14年)、平良町長だった石原雅太郎氏(上水道創設者として白川田水源地に顕彰碑があります)は、白川田湧水の様子を見て、「どうしても全島で水道を利用できるようにしたい」と、構想をめぐらされ、研究されたそうです。ところが日本は戦争に突入していき、民用水道はおろそかになっていったと思われます。宮古島にも部隊が配置されました。部隊に対して町長は、「白川田が一番いい水源」と進言したそうですが、軍部は白川田から水道を敷設することができず、部隊近くの湧水を水源として給水したそうです。
戦争が終わり、宮古も米軍の占領下におかれました。軍政府は延長で11kmくらいの水道管を敷設しました。当初は軍専用でしたが、後になると民間にも分けるようになり、特に干ばつ期には人々に感謝されました。宮古島で鉄管が使われた初めの水道でした。
その後、米軍政府とのやりとりがあって、1952年3月上水道敷設工事が着工されました。工事は1953年4月竣工、白川田の水が市内に流れ、人々を喜ばせました。ただ給水開始当時は、市内30か所に共同給水栓が設置され、給水時間は午前3時間、午後3時間というものでした。1956年第2次工事完了(緩速濾過池完成)、1957年には塩素減菌室と配水池が完成しました。こうして浄化減菌された水が供給され、近代水道の形が整えられていきました。
平良市以外の町村では、城辺町が1954年保良湧水を利用して、簡易水道を設置しました。上野村では1956年宮国簡易水道組合が設立され、1962年には宮古製糖工場の水源利用、野原部落は1959年野原岳を水源とする簡易水道を設置しました。下地町では、1959年から60年にかけて、川満と入江部落に簡易水道ができました。しかし、時代とともに各自治体独自で進めるよりも、宮古島全体として一貫性のある施策が望まれるようになってきました。1963年には水道マスタープランが米民政府によって、発表されました。それは、全島を3つの給水区に分け、3つの水源を連結して非常事態にはどの給水区にも送水できるようにという内容のものでした。1965年には宮古島上水道組合が設立され、米政府もからんで二転三転した宮古島の水道問題は、ようやく落ち着きました。1967年には全島水道化が成り、人々の夢は現実化していきました。宮古島上水道組合は1972年、日本復帰と同時に宮古島上水道企業団と改称し、現在に至っています。改称後も水源の開発、硬度低減化施設設置など、5次に亘る拡張事業を実施しています。
こうしてみてきますと、望ましい水利用をめざして、人々がどんなに苦労してきたかがわかります。私達の課題は、水を大事にし、水資源の保護造成に心を配ることではないかと思われます。
(渡久山章)
コラム『風土と人のかかわり − 島尻マージと宮古人』
コラム『昭和初期の宮古島の水事情』
コラム『宮古島水道誌(宮古島上水道組合発行、1967年)』
コラム『宮古の水と人の力』
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